那珂湊の古地図発見 江戸中期に作成か?
東日本大震災で被災したひたちなか市那珂湊地区の民家の蔵から、江戸時代中期の享保年間(1716〜36年)に作られたとみられる同地区の古地図が発見された。同地区の地図は、天保年間(1830〜44年)のもの(市教委所蔵)が最古とされてきたが、今回発見された古地図はさらに100年近くさかのぼる可能性が高い。市教委は「江戸時代に書かれた地図は現存するものが少なく貴重。今後、早急に確認したい」としている。
古地図が発見されたのは、同市湊本町の菊池恒雄さん(81)宅の蔵。4月下旬、屋根が大破した土蔵で、落下した書物などを整理していた際に見つかった。古地図の裏には、菊池さんの祖父、正三郎さんの字で「那珂湊略図」「菊池氏」と書かれていたという。
古地図には、現在の中心市街地を走る「本通り」は書かれているが、本通りから海側を走る「中通り」「下通り」「浜通り」は書かれていない。
「那珂湊市史」によると、海側の三つの通りは、それぞれ文化(1804〜18年)、文政(18〜30年)、嘉永(48〜54年)年間に作られたという。
また、古地図には、現存しない水戸藩の「御船蔵」が書かれている。御船蔵はもともと、那珂川の対岸の大洗町側にあったが、享保8(1723)年に起きた洪水で流され、那珂湊側に移転した経緯があるという。
一方、天満宮(同市湊中央1丁目)の社殿は現在、東側を向いているが、現在地に移築されたのは享保年間で、それまでは北側を向く形で建立されていた。古地図には、北側を向いた天満宮が書かれており、現在の社殿のある場所は空き地となっている。
このため、古地図は享保年間のうち、御船蔵の移転後から天満宮の移築完了までの間に書かれた可能性が高い。
徳川光圀が建てたとされる別荘「夤(い)賓(ひん)閣(かく)」(現湊公園)についても、現存するのは平面図のみだったが、古地図では夤賓閣が立体的に書かれており、今後の研究に貴重な資料になるという。
菊池さんは、古地図がなぜ蔵にあるかは分からないとしながらも「見つけた時は、これは相当古いんじゃないかと思った。今後も大切に保管したい」と話した。
(茨城新聞 2011.0718)